2020年度JIA新人賞講評

2020年度 JIA新人賞  現地審査作品
作品名 設計者 事務所名
河谷家の住宅 髙橋 一平 髙橋一平建築事務所
ミナガワビレッジ 神本 豊秋 再生建築研究所
JINS京都寺町通 中村 竜治 中村竜治建築設計事務所
コンテナ町家 魚谷 繁礼 魚谷繁礼建築研究所
追手門学院大学 ACADEMIC-ARK(アカデミックアーク) 須部 恭浩
永山 憲二
三菱地所設計



講評:塚本 由晴

 

 2020年は新型コロナウイルスによるパンデミックに世界中が巻き込まれた年として記憶されることは間違いないでしょう。3月からは非常事態宣言のもと、移動や集会の自由が毀損されかねない状況でしたが、2度目の緊急事態宣言との合間に、無事に現地審査までを行うことができました。応募してくださった建築家や、現地審査に協力して下さった建て主の皆さん、そして審査運営に尽力されたタスクフォースの建築家の皆さん、事務局の皆さんに、この場を借りて感謝いたします。
 10月31日に行われた二次審査における、建築家によるプレゼンテーション、質疑応答とそれに続く討論は、建築を捉える批評言語の問題にまで展開し、その様子はインターネットで配信されました。
 現地審査は12月6日の高橋一平さんによる「河谷家の住宅」からはじまりました。川越の伝統的建造物群保存地区の外ではありますが、周囲に立派な商家が残る街角にあらわれた、白い箱の少しずれながらの積層は、SANAAの作風を思わせました。道路側間口いっぱいの1階開口から入ると内部はがらんどうで、入れ子になった木の箱が下から大きい順に3段重ねられ、外殻とのすきまはトップライトの光で満たされています。内部の垂直性と町家のように道と連続する水平性が交差する構成の修辞は、見世蔵と住居が複合した川越の伝統的な商家の奥行きを、水平方向から垂直方向に解釈し直した、見世蔵造りの新世代といえるものです。伝建地区を外れれば、都市形態と建築形式の相互的関係はほどけてしまいがちですが、この住宅の振る舞いは、むしろそれを諦めずに新しいやり方で手繰りよせようとしています。川越のような観光地の難しさは、客の期待と地元の「なりたい」が複雑に重なった自画像を問題にせざるを得ないところですが、そこで作られる商業建築の多くが、過去の意匠にすり寄る役割を、客の期待に応えているという大義名分のもと安易に引き受けてしまうことに対し、高橋さんはここでの暮らしをまちの過去や未来との関係の中に位置付け、物質的な豊かさを超えた豊かさにつなげることで、住宅だからこそできる役割を示していると思います。歴史的な建築形式を空間構成から捉えることで解体、再構成するのはまさに抽象の力ですが、ここで一つの疑問が浮かびました。20世紀以降、歴史的な建築形式を抽象化して再構成する方法は、「空間」という批評言語の中で強い存在感を示してきましたが、この方法はいつまで続くのかということです。後続世代が高橋さんの住宅作品をさらに抽象化して、何かを引き出すことを私は想像することができません。空間という批評言語による抽象化は先行世代の特権だったと言われてしまうのではないか?建築の歴史を一方的に蕩尽してしまう可能性もあるのではないか?
 12月7日は再生建築研究所による「ミナガワビレッジ」を、表参道から少し裏通りに入った住宅地に訪れました。RCの低層マンションへの建て替えが進むことで、庭つき一戸建てはすっかり自信を失い、住宅地としての風情も失われつつある中、この作品はその風情を高らかに謳い上げていることにある種の感動を覚えました。一敷地に増築を繰り返していた木造住宅を現行法規に適合化させるという、誰も取り組もうとしなかったことに挑戦し、経済的に持続できる仕組みを、オーナーや投資会社と議論しながら作り上げた過程の面白さは、想像するだけでも羨ましいです。しかも設計者が入居し、当事者として運営に関わる念の入れよう。建物の完成後は場の実践から切り離されることを、近代的職能の一部として受け入れてきた「空間で勝負」する世代とは、明らかに違う世代の建築家の登場です。かといってその建築体験が貧しいわけではありません。通常の建て替えでは失われてしまう、古い住宅地のフラジャイルな質や、新旧織り交ぜた場の絡み合いは居るだけで楽しい気分にしてくれます。現地審査中も、表参道界隈に遊びにきた女子達が、庭の方に迷い込んで気兼ねなくおしゃべりしているのが印象的でした。
 12月17日は中村竜二さんによる「Jins京都寺町通」を訪れました。アーケードのかかった商店街の一画に新しく建てられたビル1階の内装設計です。テナントが変われば解体されスケルトンに戻される商習慣に抗うようにコンクリートの箱が打設され、アーケードとの境には往年の魚屋、八百屋やドラッグストアのように建具がありません。一方、コンクリートの箱の中に設置されたテーブルの表面にはわずかな凹みが与えられ、グリップ性の高い塗装とあいまって、メガネがストレスなく定位置に納まるようになっています。粗さと繊細さ、抵抗の姿勢と優しさをこんなふうに組み合わせられる感覚は誰にも真似ができません。ヨーロッパにはモニュメンタリティを獲得したインテリアというのがあり、20世紀初頭のものが未だに残っていますが、京都のような歴史のある街ならば、テナントが変わっても残り続けるという中村さんの企みも、あながち夢ではないかもしれません。
 次に魚谷さんによる「コンテナ町家」を、油小路御池に訪れました。作品名から町家の改修を想像した人は驚くことでしょう。実際は旧市街の街区中央に残されている裏長屋と路地を、鉄骨のスケルトンの中にコンテナとともに包含することにより、マンション開発により崩れていく旧市街の都市構造を改修して、後続世代に引き継ごうとするものです。街区の反対側には、古い路地と裏長屋の組み合わせがまだ残っていて、この作品と背中合わせになっています。こうした街区中央の長屋は、様々な技能を持つ職人たちの作業場兼住宅でしたが、接道幅を欠くため建て替えられず、劣化の一途をたどり、隣地のマンション開発にあわせて買い叩かれています。魚谷さんの問題意識は、1000年以上かけて編み上げられてきた、京都の旧市街の都市構造とそれを支えてきた生業の連関が、マンション開発を遂行する産業社会的連関からは見えず、痛みすら伴わないかのように建て替えが進められていることです。景観ガイドラインが求める表面的な意匠とは対照的に、コンテナ町屋は街の痛みを物質化しているようです。保存された長屋の一区画にはシミ抜き職人の工房、コンテナ群には様々なクリエーターの仕事場があり、まさに現代の裏長屋となっています。数多くの町屋改修の経験を通して、都市構造の改修という大義をつかんだ魚谷さんでなければ、京都の街中にコンテナを積み上げるような常軌を逸した方法を、確信を持ってやり通すことはできなかったはずです。
 12月18日には須部さん、永山さんの三菱地所設計のチームによる「追手門学院大学アカデミックアーク」を、茨木市に訪れました。元自動車工場跡の広大な敷地をサテライトキャンパスとして再整備するにあたり、まず図書館とラーニングスペースの複合施設が、学生の居場所として計画されました。しかし敷地からは埋蔵文化財が見つかり、その調査が再整備のスケジュールを圧迫することを最小限に留めるために、発掘調査が必要な基礎部分の面積を最小限にし、上に行くほど面積が大きくなる逆三角錘台のようなボリュームが導き出されました。中央の三角形の広場を周りから囲むように廊下および教室が積層し、広場の上には図書室が吊られています。吹き抜けを介した互いに見る/見られる関係により、集まって学ぶ熱気を感じることができました。一棟に機能を集約することにより、限られた建設期間でプロジェクトを成立させる問題解決型のアプローチには清々しさを感じました。複数建物を分散させ外部空間を作るキャンパス計画の定石を覆している一方、キャンパスの核となるはずの図書館が、全体の構造的かつ形態的な合理に従うあまり、犠牲になっているのは惜しいと思いました。
 すべての作品の現地審査を終えたあと、五十嵐さんが乗る予定の札幌行きの飛行機の時間まで議論したが意見を集約できず、最終決定は年明け1月4日のズーム会議に持ち越されました。独自の文脈と問題意識と方法を持った作品揃いで甲乙つけ難く、議論を尽くしても審査員の間の評価の相違はなかなか埋まりませんでした。福島さんは、施設運営に設計者がかかわることで、よりしなやかな設計が可能になると認めつつも、自分の身になると実感が持てず、建築のモノとしての力や作品性にこだわるという意味で高橋さんを推しました。五十嵐さんはたとえ袋小路に入ったといわれようと、独自の世界観や美意識に集中できるのが建築家だと言う信念から中村さんを推しました。塚本は20世紀の成長・拡大を支えた「空間」と言う批評言語は、地域の事物連関から自由になり、生産性を高める上で必要であったが、それに依拠し続ける限り地球環境の劣化は避けられないという考えから、事物連関の再縫合を試みる魚谷さんを推しました。そして互いに納得出来ることを確認しました。こうした評価に多様性があることは素晴らしいことであり、これを祝福することに新人賞の可能性を見るならば、応募要項通り二名に無理に絞るのではなく、三名のまま推薦しても賞の理念を損ねるものではないと審査員三名が合意し、高橋、中村、魚谷の三氏を新人賞候補者として推薦することに決定しました。

 


講評:福島 加津也

 

 新しい人がくると世界は新陳代謝する。それはいいことだ。だからさまざまな分野に新人賞があるのだろう。そして、対象となる「新人」の定義はとても大切になる。スポーツのプロ野球やJリーグの新人賞には、年齢などの明快な規定があるが、純文学の新人賞といわれる芥川賞には明快な規定がない。新人という言葉の意味が時代や社会との関係で変化したときに、議論が必要となるからだ。JIA新人賞に年齢や作品数などの規定がないのも、その意味を議論するべき、と理解した。日本の建築界が発展途上にあった時代の「新人」とは、これまでにない新しさに挑戦している人、という意味であったと思う。それが現代にどのように変化しつつあるのか。こんなことを考えながら審査に臨んだ。
 74作品の提出されたパネルによる一次審査と、9作品のプレゼンテーションによる2次審査を経て、現地審査に選ばれた5つの作品は、改修、伝統、インテリア、町屋、大学と多様な分野に拡がった。ここから、審査の順番でそれぞれの作品を講評していこう。
 神本豊秋 「ミナガワテラス」
 表参道にある60年前の住宅の改修と建替である。立地的には、すべて壊して建替えしかないと思われる条件だ。しかし、この作品は持続してきた建築が持つ空間の記憶を引き継ぐことに留意している。古い仕上げ材を大胆に引きはがし、既存の軸組の補強までを見せながら、雑然とした様相にはしないていねいさが心地よかった。そのていねいさは、新築部の素材の使い方やディテールにも発揮されている。このような保存と新築の中間のような方法はとても新しい。ファッションで言えば、古着(保存)やオートクチュール(新築)でもない、リメイク(折衷)のようなものだろうか。リメイクだけが持つ魅力をもっと感じてみたかった。
 高橋一平 「河谷家の住宅」
 川越の伝建地区に建つ戸建住宅である。内部空間は木造の入れ子になっていて、伝統的な町屋の平面的な奥行きが、現代の住宅へ立体的に転換されている。街へと拡がる開放的なミセのような空間と、狭いけれどそれが心地よい路地のような空間が、回遊する動線でつながっている。このように、伝統の中に忘れた去られた慣習をもう一度考え直すことは、とても現代的なテーマである。それが形や素材ではなく、空間の空気感として考えられていることが興味深かった。全体としてリラックスできる雰囲気を持ちながら、それぞれの空間の配置と大きさの選択には強い緊張感があり、建築家としての実力の高さを十分に感じさせた。しかし、既視感のある外観は少し残念である。新人になるためには、親との関係をもう少し客観的に見るべきだと私は思う。
 中村竜治 「JINS 京都寺町通」
 全国に展開する商業施設のインテリアである。鉄骨造の9階のビルの地上階に、四角い箱が2つ入っているだけのシンプルな構成だ。そして、その箱が壊しにくいRCでできているのが面白い。短期間しか存在できない現代のインテリアに対する批評としてのデザインは、現地に行くとさりげなくでも確かな違和感を生み出すことに成功している。一方で、この丹念で精密な空間は、小さな差異を競い合う袋小路のような息苦しさも感じさせる。この息苦しさは、現代建築の宿命のようにも思えてくる。それを突き破るのか、それとも深く掘り下げるかは、建築家としてこれからの大きな別れ道になるだろう。
 魚谷繁礼 「コンテナ町屋」
 京都の町屋の改装である。京都の町屋は街全体の構造となっているので、それは歴史と文化の持続という大きなテーマに拡がっていく。このような大切だが難しい課題に対して、この建築家は以前から多くの事例を通して応えている。この建築では、既存の町屋を鉄骨のフレームで覆い、その間に海上コンテナを挿入している。飲食と事務所が立体的に混在する空間は、まさに京都の街区構造が垂直化したようだ。伝統的な町屋と即物的なコンテナの対比はSF映画の様であり、新旧が両立する新しい京都の風景を切り開こうとする活気を感じさせる。今はまだコラージュの記号のようにも見えるが、これから豊かな空間になっていく可能性に賭けてみよう。
 須部恭浩と永山憲二 「追手門学院大学 ACADEMIC-ARK」
 大阪の私立大学の新しいキャンパスに建つ校舎である。埋蔵物調査期間の短縮から最小の接地面が求められ、その結果として三角形の平面と逆三角錐形の断面が導き出されたという。このシンプルな造形は誰にでも分かりやすく、茫漠とした周辺環境に調和しながら大学のシンボルとして成功している。特に、内部空間は空港や宗教施設のような雰囲気があり、ヒューマニズムにまつわる甘い慣用句を飛び越える力を持っていた。しかし、このダイナミックな空間構成を活かしきれていないように感じてしまった。現地の説明でも使用者である学生のためにという話が強調されたが、そうすると図書館の閉鎖性など気になる点が出てきてしまう。この空間に特有の長所を、もっと前面に押し出してほしかった。
 現地審査で見た5作品にはそれぞれに異なる「新人」らしさがあり、優劣を決めることが難しかった。この多様さこそが現代の特徴なのだろう。厳しく言えば、これらの「新しさ」はこれまでに見たことがあるものだった。その中で合否の決め手となったのは、作品としての強度であったように思う。新しさの本当の意味は、未来にしかわからないのかもしれない。そうであったとしても、私は「新しい新しさ」を考え続けていきたい。

 


講評:五十嵐 淳

 

 僕は北海道の東の街で生まれた。戦後、工兵だった祖父がこの街に移り住み工務店をはじめた。当時、建築はもちろん、木材で作れるものはなんでもつくり売っていたと聞いたことがある。冬には橇もつくっていたそうだ。
 子供の頃の遊び場は工務店の土場や作業場だった。現場へも連れて行ってもらった記憶がある。そんな僕が育った家は住宅兼事務所で、間口に対して奥行きの深い建物で沢山の部屋があった。薄暗い中廊下があり北側の端っこに造作風呂があった。小さな頃の微かな記憶だが、若い職人が数人同居していて猫と犬も数匹一緒に暮らしていた。そんなこの家は、僕が中学生になるまでの間に3回、暮らしながら増改築された。間取りが変わったり階段の位置が移動したり設備が新しくなったり窓が進化していった。そんな体験で強く印象に残っていることが2つある。1つは祖父に階段の位置をどこにして欲しいと聞かれ、僕が答えた場所に階段が出来たこと。もう1つは沢山の部屋を構成していた壁が全て消え去り、柱だけになった瞬間の記憶。薄暗かった中廊下やジメジメしていたお風呂場に、南からの光が奥深くまで射し込んできた体験。小さかった僕はその場に興奮していたが、また壁が作られ扉で区切られ暗い中廊下が生まれた。こうして中学生までをふりかえると建築とは呼べないかも知れないが、家業が工務店だったことで建築に触れる機会が多かった。
 高校生になり人口5000人の街から10万人の街で暮らし始めた。その時の僕には都会だった。あまり目標が見つからずダラダラと過ごしていて、学校は退屈だったが、下宿生活はとても楽しかった。こんなことを告白して良いかわからないが、この頃から飲食店に出入りしていた。単なる好奇心から飲み歩いていたが、田舎者だった僕に、お洒落なお店への憧れが芽生えていた。今見ると新しくもお洒落でもないお店だが、当時の僕は興奮した。この街のそういうお店を見つけては体験しているうちに、これは誰が作ったのか? 誰が考えたのだろう? という疑問が浮かんだ。笑われるかもしれないが、この素朴な疑問がキッカケでインテリアデザイナーの存在を知った。高校も終わる頃、担任の先生にお前どうするんだ? と聞かれ、成績も悪く卒業も単位が足りず危うかった僕は、浪人しても勉強しないだろうと思い、おぼろげに憧れていたインテリアデザイナーになるには専門学校という選択肢があると考えたが、どうやら国家資格のようなものはないし、インテリアだけを学ぶと、後から建築の仕事に就くのは難しそうだから、先ずは建築を学んだ方が良いのではないか、という理由だけで人口10万人の街から200万人の街にあった建築の専門学校へ進んだ。
 その街は大都会だった。刺激が沢山あった。学校の法規や構造は退屈だったが、設計と計画の授業はとても楽しかった。そんな18歳の夏、学校の隣の席の机の上に建築家シリーズと書かれた本が置いてあった。手に取りページをめくると子供の頃テレビで見た建築が2つ載っていた。テレビで見た記憶はとうに失せていたが、写真をみて思い出したというのが正しい。この時、僕は初めて「建築家」という存在を知り、強く「建築家」になりたいと想った。「建築家」という存在は知ったものの、その時の僕には途方もなく遠い存在であった。建築家の事務所の門を叩くことなど全く思い浮かばず、担任の先生に勧められた設計事務所に入所した。
 仕事を始めた頃は実務を学ぶのに必死だったが、「建築家」への強い憧れは消えることはなかった。事務所は普通の住宅を設計していたが、色々な建築家が載っている雑誌が沢山あった。昼休みや仕事の合間に読み漁り、本に載っている「建築家」にどれほど憧れたことだろう。その思いはどんどん強くなっていったが、「建築家」になる方法がその時の僕にはわからなかったので真剣に「建築家」になるためにはどうしたら良いのかを考えた。国家資格は「建築士」となっていて「建築家」という国家資格はないらしい。そんなことを真剣に考えていた時に、早く自分自身で設計した建築を作ってみたいと考え始めるようになった。
 勤めはじめて5年が過ぎた頃、普通の家に疲れ、辞めようと考えた。独立して自分で事務所を始めてから、普通を深く学べたことが良かったことに気づくが、その時の僕には限界だった。そんな時、実家の工務店の社屋を建てるという話を聞き、直ぐ仕事を辞め小さな街へ戻り、勝手に設計を始め、父親にプレゼンし三案目でOKが出て、やったこともなかった積算をやり、色々な業種の人達と交渉しながら減額し着工に漕ぎつけた。職人と一緒に現場で働き、夜は図面を描き、また朝から現場に入り浸る生活をし、26歳の時に処女作が完成した。敷地は僕が生まれ育った、増改築が繰り返された思い出の建築の跡地だった。
 この建物で北海道の学会の小さな賞をもらった。この時に、少しだけ「建築家」と名乗ってもゆるしてもらえる気がした。しかし相変わらず僕が憧れ続けている「建築家」は遠い存在であった。
 そんな僕が今回の審査で考えたこと、それは僕が若い頃、憧れ続けた「建築家」のような「建築家」を選べたら嬉しいなということだった。選ぶという言葉に違和感があった。どちらかというと「仲間」を探す感覚に近い。僕自身が若いころに憧れた「建築家」に近づけたのか分からないけれど、仲間だと思える「建築家」を探すこと。今年の受賞者の三人からそんなことを考えた。